エントリーシートでよくあるのが、

「大学時代に力をいれたことはなんですか?」
というもの。自分にとって、その質問の答えは、「読書」である。大学にはいってから何冊の本を読んだのだろうか。とにかく量を読んでやろうと思い、アルバイト代はほとんど本に消えていった。だが、大事なのは、「なぜ読書をしてきたのか」そして、「なんでそんなに量を意識して読んだのか」である。それを自分の中で最近よく考える。自分が思うには、読書をすることで人間形成がされると思ったからである。そして、その人間形成のために読書をするのなら、様々な人の考えかたをとりいれた方がより懐の広い人間になれると思ったからである。その他に理由としてあげられることは、中谷彰宏氏と齋藤孝氏がいる。「量が質に変わる」こんなことを言っている。その言葉が、部活などで練習量を増やすと自分は伸びてきた経験のある自分の考え方とマッチしたため量を読むようになったのだと思う。
話を前者の理由に戻すと、「なんで人間形成がしたいのか」である。「人間形成」という言葉は非常に抽象的な言葉であって、「人間形成といってもどんな人間になりたいのか」を自問自答する日々である。「器の広い人間になりたい」「憧れられる存在になりたい」「何事もどっしり構える人間になりたい」そんな言葉がでてくるが、その思いはどこから来ているのだろうかと思う。幼少からいままで経験を振返ってみるとその答えがあるのだと思う。そういった、自分を振り返るという行為が、いまの自分には必要である。だが、同時にこれは、みな必要なことなのではないかと思う。自分と同年代の人達は、本当の自分を知ることに対して恐怖を感じる人が増えているのではないかと思う。なぜかたと言えば、本当の自分をみつけることが可能になれば、「個」として社会の中で生きていくことが可能になると思う。この「個」というのは、決して一匹狼のように常に一人でいるというわけでなく、集団の中でも自分の考えが言かどうかである。自分の考えをもっていないために、3年で辞める人間が増殖してしまうと考える(逆に、自分の考えをもっているからこそ、辞める人ももちろんいるが)。3年で辞めることが、いいか悪いかということではなく、ながされることになる。このながされるということは、資本主義の中では危険に感じる。
というか話がよくわからない方向へ流れてきた、本当に自分の考えをうまくまとめられないと感じる日々である。